僕らはまだ主人公が勝つと信じている。
もちろん話の流れ上、一旦負けることはザラにあるんだがね、最終的には勝つのが主人公だと。信じている。
だからまあ、その主人公が負けるとびっくりするよね。っていう話。
あたかも直近で主人公が負ける話を見たような口ぶりだけど、そんなことはなくて。
ふと、
ふとね。主人公が勝つって信じてるんだな俺。と思ったわけでありまして、
これは発見だな、とも思ったんです。
まあ世の中信じられることって実は少なくて、例えば家族、愛する人のことを信じています。と口で言うのは簡単だけど、、(いや実際信じてないとかではなく)
本当に心から(あ、信じているんだ)と自覚出来る瞬間は少ないですよねというアレ
全く同じものだとは思わないけど、信仰心とはつまりこういうことかもなと思ったり。
もし「主人公は(最終的に)勝つ」という信仰が経験によるものであれば、つまり数多の作品を見てきて、そのほとんど(全てとは言わない)で主人公は勝利を収めてきていることから来ているのであるのならば、
他にも信じられるものって見つかるんじゃないか。
という仮定。
「主人公は最終的に勝つんだけど、その過程においては必ず負ける。」
ということも信じられるかも。
逆説的に!!!
作る側は、受け手の信仰にまで意識を伸ばさなきゃだめだ!
当たり前か、、
作り手は、受け手でもあるわけで、、いうなれば、まあ自分の信仰心にどれだけ自覚できているか?
ということが大事であるわけで、
信仰は思考のさらに奥、心の臓に刻まれた記憶
タンターンタ タカタカ タカタカタ ウン タンタタータ タカタカタカタ
いままで僕は、
感じる 思う 考える この3つの違いを意識していたんだけども、
ここに”信じる”が加わるかなと「思った」
”感じる”の手前に”信じる”存在していて、”考える”の奥にもまた”信じる”が存在しているのではと(感じる・思う・考える・信じる)
タンタカ タカタ カンタカタ カンタカ
主人公が勝つと信じられているからこそ、どうやってその信仰をはずすかってとこが腕の見せ所なのか・?